ゆくゆくはあの旅の記録を本にしたいと思っている。しかしモッコのタイヤ交換ならA級ライセンスの俺も、そういう方面へのアプローチは当然ながら素人だ。そこでその道のプロからじきじきに話を聞ければ有益なアドバイスや、或いはきっかけを得ることができるかもしれない。
この編集部が手がけているのは専門職の強い雑誌だった。というよりも厳しい現状に晒されている昨今の出版業界では専門分野に特化して固定のニーズを掴まなければ、よほどの大手でも無い限り生き残りは難しいのだという。
編集長の話ではそれは単に編集する側だけの問題にとどまらず、書き手にも求められる同様のテーマであるらしい。商業誌である限り、(読者かスポンサーに)売れる文章が必要なのだそうだ。聞きながらその話の意味は薄々分かる気がした。
とにかく旅とグッズでワンセットなのだ。つまり旅そのものはグッズの魅力をわかりやすく伝える宣伝手法でしかなく、一事が万事「こういう旅にはコレコレこういうグッズがお勧めですよ!」という内容の繰り返しなのだ。俺の記憶する限り、商業色の無い純粋な旅記事など皆無だったのではないだろうか。
そこを行くと俺の旅なんかは全く商業的ではない。当然の話ではあるがサイクリングやツーリングなどに比せば、徒歩の旅なんかは10分の1も、いやそれ以上の割合で需要が無いのだ。
くらいの事を「これでもか! ええい! これでもか!!」と繰り返し書き連ねていれば、そういう組織へのアプローチも或いは可能だったかもしれないが、残念ながら俺の旅は980円のビニールサンダルに480円のビニールポンチョでの日本一周だ。
どれ試しにメーカーを確認してみようと目の前に転がっているサンダルをひっくり返してみると土踏まずの位置にひっそりと『NIKF』の刻印が施された、パクリなのかパクリじゃないのかすらハッキリしない肝っ玉の小さい製造元だった。しかも中国製である。
言いながら編集長は、出版社への企画の持ち込み方や企画を受ける側としての心理、アプローチの方法などを丁寧に教えてくれた。全くの素人である俺にとって、この話しは大変ためになった。
結局小一時間ほども貴重な時間を割いていただき、アレコレと手ほどきを受け、今後絡める企画があったら連絡をくださいとありがたいお言葉を頂戴する。そんな話を聞きながら痛烈に思ったのは拠点としての住所の獲得だった。何をするにしても自分の部屋は、無いよりあったほうがいい。
当座動かせる軍資金は20万円、これで来月の給料日まで凌がなければならない、つまり内半分か、せめて5万円くらいは手元に残しておかないとその後の生活が成り立たないのである。そんな現状から逆算的に導き出される検索条件は即入居可能な家賃の安い、しかも敷金礼金が限りなくZEROに近いという物件だ。
そういう条件で絞り込むものだから、振るいに残る部屋は『築40年、銭湯スグそば』とか『3畳1間、風呂・トイレ共同』とか、そんなどこか悲壮感漂う物件しか見当たらない。それでも根気よく目を皿のようにしてページをめくってゆくと、調布の京王線沿線に『敷金1礼金0』というワンルームを発見! 6畳半のワンルームだがユニットバスと電気コンロがついている、しかもちゃんと即入居可能だ。
さっそく電話をして確認するとその部屋はまだ空室らしく、詳しい話は店頭でということだったので、俺は例のカプセルホテルにチェックインをして手荷物を突っ込むと、京王線に飛び乗った。
一見手ぶらの俺に安堵したのか、不動産の男はわざとらしい困り笑を浮かべながら物件詳細データを持ってきた。見てみると実際は敷金も礼金もちゃんと2ヶ月分の部屋なのらしい。
爪弾く弦の震えに後顧の憂いを断った陽気な心が伝わったのか、境内を通過していた観光と思しき外国人達がオジー自慢のオリオンビールのリズムで踊りだし、演奏が跳ねると拍手をしながら有無も言わさず100円硬貨や500円硬貨をくれた。快く頂くことにして再び澄んだサンシンの音色を遊ぶ。
恋はいつだって突然だ。
理由なんかはいらない、好きになった瞬間から、いや好きだということに気付いた瞬間から怒涛の恋は幕を切るのだ。
9日の朝、俺の機嫌はベラボウによかった。なぜなら今日はその恋のお相手と午後からお茶をする予定なのである!
この約束は実は11月4日にとりつけていたのだが、その頃は仕事も無く部屋も決まっていなかった事もあり情緒不安定で諸手を挙げて大喜びとかは出来なかったのだが、仕事も部屋も決まってついに住所不定無職の執行猶予的時間に突入すると、もうお茶の約束をしている9日が待ち遠しくて待ち遠しくて、7日と8日なんかはずっとそのことばかり考えていた。
これはあくまでも建前上は『お茶』なのだが、この数日間は『お茶』という単語が俺の頭の中ではことごとく『デート』と変換された。例えば伊藤園の『おーい! お茶』などは『おーい! デート』、あややちゃんが宣伝する『午後の紅茶』などはこの場合『午後の紅デート』になるのである。
それにしてもウム、この『紅デート』というのがなんだか興奮するではないか。そこはかとなく真っ赤に燃える情熱の赤という感じではないか(繰り返すなよ)。
「愛して! だと? おう愛してやんぜ!! そこんとこ死! 苦! 夜! 路!」
などとテレビCMを見ながら誰もいないカプセルホテルの地下食堂で思いっきり、しかも振り付きの独り言を息巻いていたら、階段を降りてきた掃除(?)のオバちゃんと劇的に目が合って恥ずかしかった。
話は戻ってご機嫌な九日の朝、いつも無愛想に仕事をこなすフロントの兄ちゃんの不景気顔まで笑顔に見える。まるで病気のように毎日通った立ち食いうどん屋の大将のイカツイ顔もなんだか俺の幸せな門出を祝福しているかのように見えて、ええい今日は特別にトロロ別注文だ!
一事が万事そんな具合で俺はお立ち台でジュリ扇を振り回すイケイケギャル並にご機嫌だった。というのも最近自分のまさにイメージしたとおりに事が進むのだ。ということはこの恋もイメージどおりに進んで、あんなコトや、え? こんなコトまで!? と一人雑踏の真ん中で立ち止まってはハァハァと固く拳を握り締めながら肩を震わせて、しかも声を殺して顔は笑っているのである。警察に見つかったら即刻身柄確間違いなしの挙動だ。
待ち合わせ場所の某駅改札には、約束の時間の一時間も前に到着していた。
さすがにいくらなんでも早すぎたと思い、オーバーヒート気味の頭をクールダウンさせるため、はじめて降りた見慣れぬ街を散策する。
途中懐がいささか心もと無いなぁと思い郵便局のATMで諭吉を強制連行。
(いや、もしかしたらそれでも足りないかも・・・)
と思ってしまった自分のバカさ加減に、当時の俺が気付いていたかどうかは甚だ疑問だ。そもそも二人のお茶代が1万円以上もするはずがないのではないか。
フワフワの、実際5ミリくらい浮いていたかもしれないエアーINチョコのような足取りで再び待ち合わせ場所へ急ぐ。約束の時間より30分も前だが、いやまてよ、これはもしかすると彼女の方が先に待ってるかもしれないぞ? マズイなぁそしたらヤッパ俺は
「やぁ、待った?」
とか言いながら、曙のおっつけのようにドドドッと近づいていくべきなんだろうなぁ・・・などと幸せな妄想に浸り切りながら上り詰めた改札には、やはり誰も待っていなかった。そりゃそうだ。まだ約束の時間よりも30分も前じゃないか。
俺は改札口から左右の出口両方を均等に見渡せる『駅で彼女を待つならこんな場所』という絶好のポジショニングで表面上は平静を装いながら、それでも一分に二回半くらいの間隔で時間を確認しながら『まさにデートの相手を待っている男真っ最中』というオーラをムンムン醸し出していた。
こんな風に自分がどうしようもなく幸せな時というのは、全く余計なお世話なのだが
(あの人は今幸せなのかなぁ・・・)
などと、道行く全ての人々の幸せについてまで考えてしまうものだ。
ああ! 出来ることならこの溢れる幸せを全世界の恵まれない人々に分けてやりたい! ・・・けど本当は分けてやんないもんね! 全部自分のものなんだもんね! と、もうここまでくるとみっともない上に軽度の精神分裂病患者である。
そんな自分のためにする妄想で脳内の快楽物質にまみれていると、ついに意中の相手がやってきた。遅くも早くも無く時間ピッタリだ。
「おまたせ! じゃ、いきましょうか」
っか〜! そのリードする姿勢が完璧じゃあありませんかレディ!
わかりました、こうなったら中林あきお、どこまでもついて行きます、なんなら、どうしてもとおっしゃるなら、あなた様のお部屋まで・・・と、妄想はいくら膨らませても無料なのでジャンジャン膨らませた方がお得だ。
お互いの簡単な近況を駅前の雑踏に振りまきながら、案内されたお店はガラス張りのお洒落なカフェーだった。
うむ、恋する男女が愛を語るには絶好のシチュエーションじゃないか。
ゆったりと広い清潔なテーブルに向かい合って腰を下ろす。目が合った瞬間全くもって唐突に指をさして高笑いしたくなるほどのベッピンさんだ。以前も実はこういうシチュエーションがあったが、そのときはこれほど胸が高鳴ることはなかった。間違いない! やはりこれは恋なのだ!
終始そんな具合に内面的には興奮しつつも、しかし表面上はいかにも世事慣れした30歳を演じた・・・というか会話のペースは実はこの女性がしっかり握っていた。俺は彼女のその豊富な話題と深い含蓄にただただ一方的に巻き込まれるような感じで、俺の努力は発言権の返ってくる僅かな時間にいかに気の利いた返事を出来るかに集約された。
下手にトンチンカンな返事をするとこの方は露骨に冷めてしまって、早くも次の話題に移ってしまうのだから気が抜けないのだ。場合によっては
「私、帰ります」
とでも言いかねない雰囲気だ。
しかしこの女性は・・・ん、ちょっと書きづらいのでここではA子さんと呼ぶことにしよう。A子さんは可愛かった。俺はA子さんの事をほとんど知らない。従って彼女の未知の部分は全て愛する可能性を秘めたウハウハエリアなのである。
何気ない仕草の一つ一つや明らかに喋りつかれた瞬間に見せる、担任の目を盗んであくびをするときのような息遣い、テンションと連動して時に弾けるような身振り手振り。
奔放に現在過去未来を語るA子さんの鋭い直球を危なっかしく受け止め、たまに受け損なっては、恋に落ちた自分を熱く意識せずにおれなかった。
密かに高鳴る胸の鼓動が、テーブル越しに彼女に伝わればいいのに! と思った。もし伝わったら人間バイブレーションだ。
「やだ違うわよ! ○○で結婚相手を見つけたのは○○さんよ!」
来た! A子さんのケーキが無くなるか無くならない頃にようやく男女のそういう話題がやってきた! そう俺はまさにこの瞬間を待っていたのだ。
(そういうA子さんは彼氏さんとかいるんですか〜)
とか、凄い自然な感じでそれとなくそんな事を聞ける絶好のチャンス到来だ!
俺は湯気の消えた湯飲みに見事な出涸らしサンピン茶を注いだりしながら出来るだけそれとなく
「でもA子さんには彼氏さんとかいるんでしょ〜」
と、なるべく硬い感じにならず、それでいてちゃんとはぐらかされずに返事がかえってくるような聞き方が出来た。
聞き方が俺の生涯的に見てもかなりベストだっただけに、あとの時間はその返事が猛烈に気になった。しかし答えは呆気なく、しかもあっという間に返ってきた
「え? いないですよ」
A子さんは頼んだ注文があいにく品切れで、
「じゃあこれにしてください」
と注文を変更するような気楽さで、それでいてなんでそんなこと聞くのかしら? というような感じに目をパチクリと見開いてサラリと答えた。
(うおっしゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!)
心の中の手のひらが骨折するくらい俺は拳を叩き込んだ。やっぱり間違いなく俺にはビッグなウェーブが押し寄せてるのだ
さぁベイビーこの荒ぶる波に乗って、見えるかいあの愛の彼方まで二人で行っちまおうぜ!! お金なら(?)俺が出すからさぁ!!!
そんな言葉が喉まで出かかった次の瞬間、A子さんは
「でも好きな人がいます!」
と、今度はあたかも二昔前の少女漫画のように目をキラキラに輝かせて合掌した。
それは今まで見たこともないような、恋する乙女の瞳そのものだった。
「え? あ、ふーん、そうなんですか、で、どんな人なんですか?」
明らかなうろたえを苦いお茶の湯飲みを傾ける仕草でごまかして、俺は果敢にもその真相に迫ろうとした。この時点ではまだ
(それは何を隠そう 中林くんっで〜っす! 毎度お騒がせしっま〜す!)
なんて逆転が起こる可能性だってあった。・・・というか既に「この時点」とか「可能性があった」と書いているまさに時点でこんないつにも増してダラダラ長い日記を読んで下さった方々にはお分かりかと思われますが、そのお相手はもちろん僕ではありませんでした。
A子さんも現在、熱烈片思い中なのだそうだ。本人も十分その認識があり、傍から聞いていてもほぼストライクに片思いであるにもかかわらず、A子さんは「結婚するならその人と!」と、既に心に固く決めているのだそうだ。仮にこの人と結婚できないなら、一生独身でも構わないそうなのである。その貫通性すら備わっていそうな気持ちの直進性は、産声を上げたばかりの俺のベイビーな恋心など到底眼中に入らないほどの強烈な指向性を帯びて、そのお相手に向かっていた。
完敗だった。
いやもう恋を通り越して愛とすら呼べるであろうそのまっすぐな気持ちに乾杯だった。
哀しいくらい心外にも、この恋愛話はマグマのようなヒートアップをみせて、2時間暖めたカフェの席を離れて案内された二軒目で夕食もご一緒することに。
話を聞けば聞くほど、この二人の間には割って入れそうな隙間など1ミリも存在しなかった。
堂々の片思いであるにもかかわらず、期待した僅かな真空地帯はまるで嵌め殺しの窓の隙間のように絶望的に存在しないのである。
心地よささえ覚える敗北感であった。俺の恋が芽生える可能性は例えば全面核戦争と同じくらいの確率で消滅した。
それはどういうことかというと、俺はおそらく届かぬかも知れない片思いに惜しげもなく情熱を注いでいるA子さんのコロニーレーザー砲のような前向エネルギーに惚れているのだ。全く皮肉な話だが心の中からその男性が消えてしまったA子さんに惚れれるかどうかは激しく疑問である。
俺の恋はいつもそうだ。
そして恋の終わりも、いつもそうだ。
俺の脳裏にはかつて愛した女性達の群像が、東の空に台風の背中を追いかける叢雲のように流れた。
「ぶっちゃけトークしてもいいですか?」
『納豆と温泉タマゴのサラダ』という将来の可能性のあるカップルならまずチョイスしないメニューに箸を落としながら、俺はA子さんの服の上からもふくよかとわかる胸元で視線をピタリととめた。
この俺の一言にはさすがのA子さんも勘づくものがあったらしく、
「え? なんですか急に・・・」
と、珍しく照れて、キレイな箸さばきの先で、お茶碗のごはんを落ち着き無くペタペタと撫でた。
奥歯を噛み締めるような思いでそんないじらしい仕草を見つめながら、俺はこの人のことを好きになって、本当によかったと思った。
「実は好きだったんですよ、A子さんの事が、だから今日、お茶に誘ったんです」
A子さんは大慌てで照れてくれた。その後俺は取り皿に取った納豆と温泉タマゴをサラダにからめて一口だけ食べ、A子さんもお茶碗を置こうか、それともお箸にとったご飯を口に運ぶべきかどうしようかと忙しく考えている風だった。
俺の恋が終わるのと引き換えに、ああこの人はこんなにも優しいのだなぁという思いが、俺の胸を暖かく満たした。
閉店まで居座った丘の上のレストランで、俺たちは手を振って別れた。
この別れは終わりではなくて、まだほんのはじまりなのだ。
夢を語れる友人として
尊敬できる一人の女性として
彼女はずっと俺の未来に生き、関わり続けてくれるだろう
小さくなってゆく背中にいつまでも手を振りながら
一度だけ振り返ってくれた事に胸を熱くしながら
俺は自分自身に何度も、そう言い聞かせた
目を閉じた遠くで電車の走る音がした
そうか、今日は歌舞伎町で過す最後の夜だな
帰りにいつもの立ち食いうどん屋で100円別注文のトロロ蕎麦にしよう
あのカプセルホテルの兄ちゃんが出勤だったら、今日は少し話しかけてみよう
さぁ帰ろう! 新宿の忙しなな雑踏も、今日は愛せそうな気がするから
いろんな事があった9日間、住所不定無職と呼ばれる最後の夜に
蜻蛉のような恋を、終わらない友情のはじまりにかえて
都会のささやかな星の下、空と丘の間を
『歌舞伎町放浪記』
〜了〜
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